(2018/1/8 一部修正)
2017/11/25に当会委員の笹崎明氏を案内講師とし、結城城見学会が行われた。その様子をレポートする。
当日は天気も良く、東京駅の鍛冶橋バス駐車場を予定時刻通り8:45に出発、結城城へ向かった。
結城城
東京駅から貸切バスで約2時間半、結城城へ到着した。結城城は下総国、現在の茨城県結城市にあった城である。1177-1180年頃に結城朝光が築城といわれているが確たる証拠はない(案内板より)。結城秀康の時代に福井へ移ったため一度廃城になっているが、江戸時代元禄期に、水野氏が結城城に入りこの地をおさめる。その際本丸、二の丸を一つの郭にする等の改築が行われている。よって現在の姿はこの時代以降のものとなる。ちなみにこの改築には幕府側として柳沢吉保が動いていた事が、普請を担当した鈴木修理の日記に残されている。本丸跡は、現在城跡公園として整備されている。
本丸跡
結城城は、実城(消滅。1枚目の写真付近)、館(現在の城跡公園)、中城(館と東館の間)、西館(館の西側)、東館(最南端)の5つの大きな曲輪と付属的な曲輪で構成され、城全体をほぼ東西、西北にわける内堀で区切り、土橋で結ばれていた。
東舘、城の一番南に位置する
結城氏
結城氏について軽く触れておく。結城氏は小山氏の分家で、小山氏というと室町時代に鎌倉公方足利氏満に対して乱を起こした小山義政が有名だが、義政をさかのぼっていくと小山政光にあたる。この政光の息子3兄弟が小山氏本家(朝政)と中沼氏(宗政)、結城氏(朝光)に分家していった。以後、義政の乱の結果、小山氏が断絶した時に結城氏から泰朝を小山氏に養子に送ったり、逆に結城氏が絶えた時に泰朝の子氏朝を養子に迎えたりしている。この氏朝は、1440年に鎌倉公方足利持氏の遺児3人(安王・春王・永寿王)を迎えて結城城に立て篭もり上杉氏と戦った結城合戦で知られる。ちなみに3人の遺児のうち永寿王だけが助かる(のちの足利成氏)。1590年頃には家康の次男秀康(豊臣秀吉の養子)を婿養子にむかえ、福井へ移封されることになる。
結城城近くには、結城氏代々の墓が
結城氏廟所は前述の東館から徒歩5分程度、城からちょっと外れたひっそりとした場所にある。ここは元慈眼院という曹洞宗のお寺の境内であった。廟所には初代朝光から16代政勝、政勝の息子明朝、妙仙(慈眼院に関係する人物だろうか)、無銘の2基を含め計20基の五輪塔が並んでいる。五輪塔は、花崗岩製である。
八尺堂、本尊が祀られている。
再び結城城に戻り、内堀を見学
結城氏廟所から徒歩で約15分、再び結城城へ戻り、城の東側面より入る。
本町水道局前付近の館と西館とを区切る内堀跡。
館、中城間の内堀。当時はもっと深さがあったと思うが、現在は写真に写っている人から判断して2〜3m位だろうか。個人的にこの場所が見学会で一番感動した場所。
結城城と城下町の境界の堀
御朱印堀は、結城城と城下町を境界にある堀である。孝顕寺の境内に堀の一部を見ることができるが、現在改修工事中ということで、外側からの見学となった。
結城城ができる前の館(結城氏館跡)
結城氏館跡は、東西約178メートル、南北約128メートルの長方形の館である。鎌倉時代初代朝光によってつくられ、結城城ができるまでの間、結城氏の館として使用されていたと考えられている(案内板より)。現在も土塁と堀跡を見ることができる。
山川氏館跡
結城城、結城氏館跡を後にし、次は山川氏館跡へ向かった。山川氏は、結城氏初代朝光の息子、重光を祖とする結城氏の分家である。
山川氏館は、結城城跡の南、現在の茨城県結城市上山川にある。南北約172メートル、東西約134メートルの長方形をした館であり、現在の東持寺の地あった。戦国時代(1565〜1566年頃)氏重の時代にこの地から綾戸城に移ったため、この地は無主になっていたが、1626年に東持寺がこの地に移転してきた。
周辺に土塁、堀がよく残る。
山川氏の居城 綾戸城
綾戸城は前述の通り山川氏の居城で、現在の茨城県結城市山川新宿にあり、結城城の真南に位置する。南側に本丸を持った連郭式で、現在は辺り一面畑だが、当時は低湿地帯に囲まれていた。築城年代は不明だが、移転してきたのが1565〜1566年頃とされているのでそれよりも前となる。
現在も残る土塁。付近にかつて大きな門があり、大手として使われていた。
堀跡が残るが不法投棄のゴミで見るも無残
以上、結城城見学会レポートでした。
つたない文章、内容で恐縮ですが、これからも、見学会の様子がわかるようにレポートを書いていきますので、見学会参加の一つのきっかけになれば幸いです。皆様のご参加をお待ちしております。お気軽にお申込みください。
参考文献:「結城市史第四巻古代中世通史編」 1980